2009年06月15日

心豊かに

 「心が豊かである」とはどういうことであろうか。

 本人にしてみれば、心に充実感、潤い、分に従って足る満足感等の心境にあることだろう。

 亦第三者からしたなら、この人といると何かなんともいえない心地よさがある、とかこの人から話を聞くと安心するし、ホッと出来るし、またよしやるぞといったような意欲がわいてくる。

 あえて説明するとこんなところか。

 さて、以前教育評論家の田中真澄さんから聞いた話である。

「人間の能力は、知識、技術、そして心構えの三辺で表される。どんなに知識と技術があっても、心構えが悪ければ、能力は出てこない。全ては底辺の心構え如何にある」と。

 塾の重要な仕事に保護者面談というのがある。ある成績が思わしくない生徒の保護者と保護者面談をすることになったとしよう。

 保護者面談で、面談担当の教師が成績が思わしくない原因と思われることを次から次へと真顔で上げていったとしよう。これでもかこれでもか困ったような暗い顔でその原因のみを取り上げていったり、また生徒の成績の話、自分が担当している教科の話、それに勉強のこと等ぐらいしか話が出来ないとしたら、この教師の心はかなり貧しく、面談の本来の目的からは大分それる。

 保護者面談に出て来る保護者であるなら自分の子供の成績の様子とその原因の大まかなことぐらいは百も承知だ。何も保護者は、不愉快ないやな思いをする為に時間を割いて話を聞きに、また話をするために来たのではないだろう。

 たいていの保護者は担当からホッと出来る話を聞きたくて来てるだ。
時間を割いてわざわざ出かけてきて良かったと思える話を聞きたくて来ているのだ。この教師にかけがえの無いわが子を預けていて本当に良かったと思わせるのが担当の勤めだ。

 だからと言っておべんちゃらを言ったり、生徒にへんなお世辞を言ったり、果ては保護者を喜ばせるために嘘みたいな事を言えといっているのではない。そのような話では相手をもちろん感動させることなど不可能だし、きっとわざとらしさが見抜かれてしまうだろう。

 このような際に保護者に来てよかっつたと思われるような話が出来るには、幅広い知識、専門性、それに教養は言うまでも無く、豊かな、そして広々とした人間性が必要なのだ。


 では、豊かで、広々とした人間性を身に着けるためには、どのような心構えと生き方が必要であろうか。

 
 まず、物事にとらわれない、いわば「中庸の心」を養うように努めることだ。例えて言うなら右にも左にも偏りすぎないこと。理系にも文系にも偏りすぎないこと。痩せ過ぎず太りすぎずといったところか。

 つまり心をニュートラルの状態にすることが出来ることだ。

 次に、自分を「謙虚」に見つめ、その未熟さを素直に認めることだ。
 そして、この人と思う人が身近に居たらその人の教えに「素直」に従うことだ。

 宮大工の小川三夫さんは、高校卒業後、「法隆寺の鬼」「最後の宮大工」と言われた西岡常一棟梁に弟子入り。修行時代は棟梁の言葉にすべて「はい」と従った。そして今や社寺建築の第一人者である。

 西岡氏は言う。「批判の目があっては学べません。素直でなければ本当の技術が入っていかないからですね」と。

 心にわだかまりのある人は人生を歪める。

 私の経験では本当に純粋に指導者に従っている人というのは、所作、言葉使い、果ては文字までがその指導者に似てくる。私に言わせればそこまで行っていない人は、まだまだ「素直さ」が足りないのだ。何処かに「我」がある。未熟で中身が無いくせして「俺が俺が」が残っているのだ。

 だから指導者の指導が100l入っていかない。従って伸びないのだ、成長しないのだ。

 四書五経の『大学』の中に次のような一文がある。

「必ず忠信を以ってこれを得、驕泰以って之を失う」

 まごころを尽くしてすれば何事も成功するが驕り高ぶる態度ですれば必ず失敗する、と言う意味か。


 さらに「感謝の念」。人生の成功者に共通の資質がこれだ。人生の成功者は呪いたくなるような境遇をも、この境遇が自分を育ててくれていると「感謝の心」をもって受け止めているのだ。

 大石順教尼と言う方が居た。明治時代のことである。十七歳の時狂った養父に日本刀で切りつけられ、両腕を切断されてしまった。九死に一生を得た後、仕事をし、結婚をし、二人の子供を出産し、育て、御縁があってその後出家した。

 出家した後は多くの身障者の方達の物質面、精神面の支えとなって生きた。

 そして最後は御本人が長いあいだ望んでいたとおりに弘法大師空海の寂滅のその日(昭和四十三年四月二十一日)に静かに亡くなられた。


 そして最後は「発奮力」「継続した意欲」だ。

二宮尊徳は言う「太陽の徳、広大なりといえども、芽出さんとする念慮、育たんとする気力無き者は仕方なし」と。


           おわり

posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 13:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

大事は軽く 小事は重く

 今回は、ペルソナの午前中の様子を御紹介しよう。

 教室は午前9時までには開く。世間の塾は大手であっても昼過ぎに教室が開く塾が大半だ。理由は塾というのは、仕事の性格上終了時間が遅くなるからだと言う。
 
しかし、世の中は午前9時ぐらいからは動き始め、10時ごろになるとスーパーを初め、ほとんどの業種が動き始めている。

 昼過ぎに事務所が開いたのでは、宅急便の配達の人が配達のローテーションを組む時、あるいは新聞の集金の方が同じくローテーションを組む時、かなり困っているのではないか?口には出さないけれども。

 私は、塾が世間から一流の業種扱いされない理由の一端はこんなところにあるのではないかと常々考えている。

 ペルソナが世間の会社にあわせてそれなりの時間に教室を開けるのは何も今に始まったことではない。20数年前に私が大手にいた頃からだ。 その頃と今とで考え方は全く違っていない。

 さて、職員が決められた時間に揃うとまず朝礼である。全員で立腰を行い『職場の教養』を輪読する。その後『生きがい実践の五箇条』などを大きな声で斉唱する。

 そして、前日の業務上の留意点の確認、当日の留意点の確認等々。で朝礼は終わる。

 朝礼が終わると次は清掃である。清掃チェックリストにもとづいて漏れの無いように清掃を行う。

 ペルソナの仕事の性質から言えば生徒に教えること、教えるために準備することが最も重要でありそれ以外のことは二の次三の次という理解になるかもしれない。

 教えることは、「生きた人間である生徒」を前にして行う作業である。そこには生徒一人ひとり違ったさまざまな状況(学力のみならず人柄、性格、感性、経験、価値観、友達関係ets)を踏まえて指導することになるので、このことは誰にでも出来ることではなく、必ずしも易しい事ではない。つまり「教える」と言うそのこと自体、かなり奥が深いことなのだ。

 ペルソナはだからと言ってそれ以外のことは二の次三の次とは考えない。

 千利休が茶の湯の心得をまとめた「利休百首」に、

「点前には重きを軽く
 軽きをば重く扱ふあぢはひを知れ」

 と言う言葉があります。

 重いものを持つ時はいかにも軽々と、そして軽いものを持つ時にはむしろ油断無く確りとした気持ちで。と言う意味です。

 先代の千の宗室さんがウシオ電機会長の牛尾治朗さんに次のようなことを話したと聞いたことがあります。

 もてなしをする時は「相客の選び方」が大事ですよ、と。

 例えば結婚式の席次を主催者側が決める時など、肩書き、地位などの形式で決めるのではなく主宰者が参加者の人間関係を精一杯考慮して決めたならば「参加してよかった」と思って頂ける参加者がきっと多くなるのではないでしょうか。

 そういう心配りが「相客に心せよ」と言うことではないでしょうか。

 日本興業銀行の頭取を務られた『財界の鞍馬天狗』と呼ばれていた中山素平さんは生前よく「大事は軽く、小事は重く」と言っていたと聞きます。

 大事は、誰もが真剣に取り組むから往々にして肩に力が入り過ぎ、反って本人の気持ちとは裏腹の結果になってしまうことがあるから、むしろ肩の力を抜いて自然体で対処しなさい。

 逆に小事はつまらない、どうせ些細なことと考えて対処するとそれが油断に繋がり、「蟻の一穴」、大事に響いてくることがある。故に小事と考えることほど心を込めて油断怠り無く行動しなさい。

 と言うようなことでしょう。

 従ってペルソナでは指導上の生徒対応は言うまでも無く、些細、あるいは二の次三の次と思われがちなことにも気配りしながら仕事をしているのです。

 松尾芭蕉に

「古人の跡を求めず
 古人の求めたることを求めよ」

と言うのがある。

古来より「人の生き方」とは、同じ人間のなせる業である以上基本的に変わりは無い。

 とするなら、かつての先輩諸氏が悩み苦しんだことから見つけ出した教訓、人生訓(今日の「大事は軽く、小事は重く」などもその一つであろう)は、確りと味わい自らの生きる指針とすべきではないか。

 その為にも日々の学びを続けなければならない。
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 14:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

新年度にあたって

 毎年4月は新しいステージでのスタートの月だ。

 新社会人たちは不安と希望を胸に社会人としての一歩を踏み出す。受験を終えた生徒達はこれも不安と希望を胸に新しい学生生活をスタートさせる。

 周りを見回しても新しい顔、新しい顔ーーーーーーー不安と緊張の中でこの4月という月が過ぎていく。

 そして、一ヶ月も経つと新しい生活にも慣れ、周りのことも徐々にわかり始めゆとりとともに、いろいろな本音が出始める。我が侭といってもよいかもしれない。

 こんな話を聞いたことがある。

 ある青年が地方の大学を卒業し、京都の会社に入った。就職難の時代。青年の喜びは大きかった。だが、それが色褪せるのにそれほど長くはかからなかった。

 会社は赤字続きで給料の遅配も珍しくない。これに対して労働組合は頻繁にストを繰り返している。


 その青年はうんざりした。同期の友人らと語らい、自衛隊に入ることにした。その手続きの為に戸籍抄本を送ってくれるよう、実家に頼んだ。だが、戸籍抄本はこず、長兄の手紙だけが届いた。

 「働くところも無いお前を雇ってくれた会社に何の恩返しもせずに辞めるとは何事か」

 長兄の叱責はズシンとこたえた。

 よし、この場こそ最高の場と思おうーーーーーー青年は生活を一変させる。


 会社に布団から炊事道具まで持ち込み、寝る間も惜しんで仕事に没頭した。その努力が認められ、会社は数人の部下をつけてくれた。こうして開発された製品に、ある大手メーカーが注目し大量の注文が舞い込むようになった。

 そんな時期、組合は賃上げ要求をして全面ストに突入。工場にはピケが張られた。だが、青年は仲間と共に会社に泊まりこみ、仕事を続けた。作った製品は裏門の塀から手渡し、納品した。

 そんな青年の行為は全組合員から非難、罵倒された。

 青年は言った。

 「私は会社の回し者でも皆さんの敵でもありません。今わが社で唯一黒字を出しているのはこの製品だけです。この生産を止めたら、それこそ皆さんの給料も払えなくなるのではないですか」

 一歩も譲らない青年の姿勢。これには組合幹部も心を動かし、スト中も青年のチームだけは仕事の続行を黙認されることになった。

 あの大企業京セラの創業者稲盛和夫氏25歳の頃の話である。

 この逸話には多くの教訓が含まれている。長兄の叱責により気がついた『恩』の一文字。

 目の前の現実をありのままに受け止め、それに全力を尽くすところからさまざまな閃きや、知恵が生まれてくること。

 そして、執念を持った生き方は人を感動させその心を動かすこと。

等等

今新しいステージを歩む全ての人達に、是非是非この逸話を参考にしてもらいたいものである。


                             おわり
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 14:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

『生きる』ということ

世は、100年に1度といわれる経済大不況である???

 あのリーマンショック以来、多くのアメリカの金融機関が危機的状況にあるといわれている。巨大金融機関のシィティーグル−プ、巨大保険大手のAIGグループ、さらにGM等のビッグスリーといわれる巨大自動車メーカー等々

 アメリカ政府がいずれの企業にも、もし手を貸さなかったら経営破綻である。GM等のビッグスリーが経営破綻した場合およそ300万人の雇用に影響がでるといわれている。ところが、アメリカ国民の70パーセント以上は国費をもってビッグスリーを救済することには反対であるという。

 そんな中、本日(3月16日)の日本経済新聞朝刊に次のような記事が載っていた。

 「政府管理下で経営再建を進める保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIGグループ)は2008年分のボーナスの一部として幹部約400人に計約1億6千400万ドル(約161億円)を支払うと報じた。一人当たりの支給額は最大で約6億円である。」

 ビッグスリーの労働者の賃金は日本のトヨタ、ホンダ等自動車メーカーの現地法人で働く労働者のそれよりはるかに高いという。そして組合は賃金を低くすることには反対であるという。

 今回の不況はいうまでもなくアメリカ発である。その大元のアメリカ企業が之では話にならない。彼らのお金に対する執着の強さは想像を絶する驚きである。

 そんなに多くのお金がなくては生きて行けないのであろうか?

 95歳の坂村真民さんにこんな詩がある

    生きることとは

 生きることとは
 愛することだ
 妻子を愛し
 はらからを愛し
 おのれの敵である者をも
 愛することだ


 生きることとは
 生きとし生けるものを
 いつくしむことだ
 野の鳥にも草木にも
 愛の眼(まなこ)を
 そそぐことだ

 生きることとは
 人間の美しさを
 失わぬことだ
 どんなに苦しい目にあっても
 あたたかい愛の涙の
 持ち主であることだ

 ああ
 生きることとは
 愛のまなこを
 貫くことだ


 アメリカ市民の多くが雇用が失われるかもしれないという現実に眠られぬ日々を送っているであろう今日、本日のニュースであるAIGグループのボーナスの話はアメリカという国の病の深さを物語っていると思えて仕方がない。

 
 さて、われわれが生きているこの地上には人間の営む経済活動が必ずありそしてその経済活動は永久に好況ということは無いしまた同じく永久に不況ということも無い。

 私は経験してはいないが約80年前、世界中を未曾有の大不況が襲った。それをその当時の人々は知恵と努力によって乗り越えて今日に至ってる。

 我々は、生きている以上はこのように目の前で好不況は繰り返されていくのだ、これからも。

 だとしたら目先の好況に浮かれ、逆に不況のときはジタバタとする事は余りにも場当たり的な環境に振り回されすぎた智慧の無い生き方なのではないのか?

 前述したように経済的 物質的な好況 不況の繰り返しは歴史の必然である。とするならそれに振り回されること無く生きていく生き方をこそ求めるべきではないか。つまり、求めるべきは何が起きても『動じない生き方』。なのではないか?

 何故ならば必ず『何かあるの』が人生だからだ。

 『生きる』ということは『道』を求め続けるということではないのか?

 求め続けなければ、つまり、『道』を求めずにお金、物に執着している生き方は間違いなく永遠に『不動心』『心の平穏』にたどり着くことはありえないだろう。

 このような生き方は一時、物質的に豊かであっても常に心から不安が消え去らないであろう。何故なら、豊かな時にも失うことを怖れているから。

 『法句経』には次のようにある

 頭(こうべ)白しとて
 このことによりてのみ
 彼は長老(おさ)たらず

 彼の齢(よわい)
 よし熟したりとも
 これ空しく
 老いたる人とのみ
 よばれん


 年を重ねて白髪になったからといって尊敬されるべき年寄りとなれるものではない。

 ただ、年を重ねて老成したからといって『徳』が無ければ単に老いぼれと呼ばれるに過ぎないだろう。


 世に『死ぬまで修行』とか言う。

 『道』を求め続けて生きていくこと、之こそ『生きる』ということではないか。
 
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 15:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月17日

人に生まれたからといって『人間』に育つわけではない

 日本で初めて電子顕微鏡を作った東昇先生という方がいた。東先生は京都大学の名誉教授だ。

 この東先生が「人間は人間の子に生まれたからといって、人間に育つとは決まっていない。猫は生まれてすぐに人が育てても猫に育つ。犬は生まれてすぐに人が育てても犬に育つ。しかし、人間は約五千通りの可能性を持って生まれてくる」と。

 狼少女の話を知っていますか?

 インドの山奥で、狼のすんでいる洞穴から、二人の人間の女の子が発見された。狼が、赤ん坊をさらっていって、穴の中で育てたんです。小さな赤ん坊をずいぶん長い間育てたんでしょう。推定八つばかりになっていたんですが、人間の世界に連れ戻されて、一生懸命人間に育てる教育をやったんですが、とうとう二人とも、人間に戻りきることが出来ないで亡くなってしまいました。

 真っ暗闇の中でも、目がらんらんと光って、何でも見える。何十メートル先にある餌が、鼻でわかる。

 餌があるとわかると、八つばかりになっていたその女の子達も、二本足で立つことが出来ないから、手も使って、つまり四足で、ものすごい勢いで、飛んでいって、餌を貪り食う。

 夜中の一定の時刻になると、遠吠えをやる。

 この狼に育てられた少女達の例は、人に生まれても、狼が狼の暮らしの中で育てると人の子も狼になる可能性を持っているということだ。

 教育界の人間国宝とまで言われた東井義雄先生の話に次のようなものがある。
 「東本願寺の前に法蔵館という本屋さんがあります。そこへ寄せてもらいました。薄っぺらの本ですが、欲しい本が二冊ありましてね、二冊計算してみたら、四百八十円。財布を調べてみましたら、五百円札がありました。本屋さんに、五百円札を渡したらね、二十円つりをくれたらいいのに、百円玉を二つくれるんです。それをもらいました拍子に、儲けたぞ、間違えたのだからいわなあかん、いわなあかんけどやると言うもんは素直にもろうといてもいいやないか。
 、その途端、もう何という恥ずかしい私だろうかと、恥ずかしい私に気づかしてもらって、お釣りをもらい直したんですが、私の中にも泥棒をやる、泥棒になる可能性が、ちゃんとあるんです。」

 東先生のおっしゃる「人は五千通りの可能性を持って生まれてくる」その可能性の中には泥棒になる可能性も誰もが持ち合わせているということか。

 人に生まれて『人間』になる。とはどういうことか?

 次にご紹介するお二人の女性の生き方がそのヒントになるに違いない。

 一人は、生後間もなく脳性麻痺にかかった木村ひろ子さん。

 手足は、左足が少し動くだけ。ものも言えない。しかも三歳で父が、十三歳で母が亡くなった。小学校にも中学校にも行けなかった。わずかに動く左足に鉛筆を挟んで、母に字を習った。

 彼女の詠んだ短歌がある。

 不就学なげかず左足に辞書めくり漢字暗記す雨の一日を

 左足で米をとぎご飯を炊き、墨を摺って絵を描き、その絵を売って生計を立てた。

 自分のためだけに生きるなら芋虫も同じと、絵の収入から毎月身体の不自由な人のために寄付をした。

 その彼女は言う。

 「私のような女は、脳性麻痺にかからなかったら、生きるということのただ事でない尊さを知らずに過ごしたであろう。脳性麻痺にかかったおかげさまで、生きるということがどんなにすばらしいことかを、知らしていただきました」と。

 もう一人は大石順教尼。

 彼女は十七歳のときに狂乱した養父によって両腕を切断されてしまった。

 大石順教尼は言う。

 「養父の刃で不具者とされたことが、大きな不幸でもあり、また無き双腕が私の大きな幸福を、掴んでくれたのです。もしこの刃に双腕を失わなかったとしましたら、、いずれは、何処かで思わぬ災禍に遭ったかもしれません。いや、私の生まれながらの運命は、決してそのまま無事に私の一生を見逃してはくれなかったでしょう」---大石順教尼著『無手の法悦』より。

 彼女は両腕を切断された後、九死に一生を得て、その後寄席の舞台に立って生計を立て、両親を養い。結婚もし、一男一女をもうけている。

 その後夫とは協議離婚をし、出家得度の後身障者福祉相談所を設立し福祉活動に専念する。

 大石順教尼に次のような言葉がある。

「身体の不自由、これはそういう因縁なのだから仕方が無いが、私達は『心の障害者』になってはいけない」
 
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 16:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

肖る(あやかる)人を持つこと

 今、日本を含む世界は『世界同時不況』とかで、連日連夜マスコミでは鬼の首を取ったような騒ぎようである。特にテレビはそれらしいニュースをその部分のみを強調して『世界同時不況』と結びつけ、画像で、またアナウンサーを通じて報道している。

 マスコミで働く人たちも組織の一員である以上不況がらみのニュースを取材してこないと上司から叱られたり、自分の仕事が社内を通らなかったり、自分の立場が危うくなったりするのであろう。不況がらみの取材をしニュースを流していれば一マスコミが組織としても無事、安泰ということか?

 ここで私は『不況は事実ではない』なんてことを言おうとしているのではない。マスコミが世界と歩調を合わせてバタバタと不況がらみの報道をすることによって国民の『心の不況』まで煽っているような気がしてならないのだ。だから最初に苦言を呈した。


 さて、こういう時程、本来日本は、あるいは日本人はどうあらねばならぬのかという原点に戻ってその生き方を考えてみるべきではないのか。『世界同時不況』とやらに振り回されて欧米と同じ様にバタバタではあまりに情けない。

 かつて、日本を訪れた識者達、徳人達が日本と日本人についてその感想を残している。
 

 1549年(天文18)キリスト教布教のために日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは本国に次のような内容の手紙を送っている。

「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分の人は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しいことを不名誉とは思わない‐‐‐‐」

 この時点から後1800年代まで(江戸後期から明治時代にかけて)たくさんの外国人が日本を訪れ、日本と日本人について感想を述べている。

 
 1856年(安政3)通商条約を結ぶために来日したハリス提督は、その日記にこう記している。

 「彼らは皆良く肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ富者も貧者もない。これが人民の本当の幸福の姿というものであろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」

 また、イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードは1878年(明治11)5月に来日、東北や北海道を旅行し、そしてこう書いた。

 「ヨーロッパの国の多くや、所によってはわが国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目には遭わなかったし、法外な料金を吹っかけられたこともなかった」

 フランスの詩人ポール・クローデルは1921〜27(大正10〜昭和2)まで駐日大使を務めたが、第二次大戦で日本の敗色が色濃くなった1943(昭和18)年、パリで次のように言った。

 「日本は貧しい。しかし、高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」と。


 かつては欧米人から高貴だとまで言われた日本と日本人は、なぜ今のような経済、物そしてお金中心に物事を考える日本そして日本人になってしまったのか?

 それは、一つに、以前に何度も書いたが、戦後の日本の教育に原因がある。『知育』だけに重きを置き『徳育』つまり『人間を創る』教育をほとんど忘れて、いや国としても個人としても行ってこなかったからだ。

 人間がそもそも出来ていない教師たちが(あるいはそれを求めることさえしていない教師達が)子供たちを『教育』することが出来るはずがないのだ。

 戦前の教育が全て良かったとまでは言わないが、少なくとも『徳育』教育はあった。『修身』の時間の中で教師は歴史上の英雄、徳人の生き方を熱く語った。そして子供たちに『あるべき理想の人物像』を描かせ、その人物に一歩でも近づくべく努力することを教えた。

 つまり、肖る(あやかる)人を心に持ち、その理想に近づくべく日々努力する、これこそ一つの『人の生き方』なのだ。

 他の動物と比べ人間ほど生き方の難しい生き物はいない。手本がなければあるいは人の道を知った人に導かれなければどう生きたらよいのかさっぱり解からないのが『人間という動物』だ。多くの人々は『解かっているつもり』でいるだけだ。

 『人の生き方』を学ぶ為に一番良いのは『人の道を究めた人』に導かれることだ。しかしながらそのような縁に恵まれる人は数少ない。

 とするならまず肖る(あやかる)人を見つけ、そして持つことだ(歴史上の人物あるいは身近な人の中に)。そしてその人の生き様を通じて『自分が生きる方向』を誤らないようにすることだ。

 人間は生まれながらに『人間』なのではない。努めて初めて『人間』になることが出来る生き物なのだ。そしてどう努めたらよいのかを教えてくれる人物の存在が絶対必要なのだ。

 

 世の多くの、特に『教師』『指導者』、そして全ての大人達にこの自覚を持ってもらいたいと思う昨今である。


                  おわり
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 14:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

『人は何のために学ぶのか』

 安岡正篤(やすおか まさひろ)という人がいた。この方は歴代総理の指南役といわれた人で、財界人の中にも氏を師と仰ぐ人は多い。東洋思想に深く精通した人だ。

 氏は、今日のテーマに対して次のように言う。

 学は己のためにす
 己を為(おさ)むるは安心立命を旨とす
 志は経世済民に存す
 志を遂(と)ぐるは学による
 学に依って徳を成し材を達す
 成徳達材を立命とす

(人は自分をつくるために学ぶのだ。そして、人生のあらゆる艱難辛苦にあっても動じないように、自分を為(おさ)めていく。自分を創るのは利己のためではない。世のため人のために自分を役立てるためである。自分を役立てるには、自分の徳を大成し、自己の才能、能力を練磨、向上させていかねばならない。それが学の本質である。成徳達材することによって、よりよき運命を創っていくのだ。)

 日本で唯一『聖人』と呼ばれた人がいた。その人の名は中江藤樹。

 中江藤樹先生は次のような言葉を残している。

「人人(にんにん)の心の中に明徳となづけたる無価(むげ)の宝あり。これを性命の宝と云い、天下第一の宝なり。」

(すべての人の心の中に『明徳』と言われる価値のつけられない宝がある。これは性命の宝であり、天下第一の宝である。)

 吉田松陰先生も同じような言葉を残している。

「人々(にんにん)貴き物の己に存在するを認めんことを要す。」

(人々は自分の心の中に貴いものが存在することを認める必要がある。)

 安岡先生の言葉をかりれば「人は何のために学ぶのか」という問に対しては、人は『自分を創る』ために学ぶということとなる。そして、その上で能力、才能を練磨し(磨き)向上させていくこととなる。

 
 今、日本を含む世界はアメリカ発の金融危機に始まる経済不況に突入せんとしていると、連日連夜テレビ、ラジオ、新聞が報道している。

 ここのところ、もっともホットなニュースはアメリカのビッグスリー(三大自動車メーカー、フォード。クライスラー、GM )が、経営破たんの瀬戸際にあり、これをアメリカ政府が国民の税金で救済するかどうかというニュースだ。

 救済のための法案が下院は通過したものの、共和党の反対で上院では否決されてしまった。

 サブプライムローンを含む今の金融システムを考え出したのは、ノーベル賞を貰ったアメリカの経済学者だという。

 ビッグスリーが破綻すると世界で三百万人の雇用が失われるという。

 
 以前のブログにも書いたが、かつて或る時代に、凛として、また威風堂々たる身のこなしが、アメリカの著名な詩人のホイットマン、あるいはあの相対性理論を提唱したアインシュタインらを感動させた日本人達がいた。

 そういう時代もわが日本にはあった。

 戦後の日本の教育は三人の先達の言う「何のために学ぶのか」ということをすっかりはき違えて今日まで来てしまった。

 アメリカ型の資本主義、思想、哲学等々が行き詰っている現象が金融、経済の世界だけではなくあちらこちらで噴出している。

 今こそ三人の先達の言う「何のために学ぶのか」と言う教育の原点に立ち返る時ではないかと思う。

 最近日本経済新聞で読んだことだが、イギリスでは今回の金融危機が起こる前からその世界で働く人たちの多くが、生きがいを求めて収入は二の次に手応えある仕事を選び出したと言う。そして、その中に『教師』と言う仕事が入っていると言う。

 子供を教育する前に『教師』の教育をキチンとしなければならない。


 今日の最後に高村光太郎の詩をご紹介する。

 
 みんな集まってほん気できけよ

 まづ第一に毎朝起きたら

 あの高い天を見たまへ

 お天気なら太陽

 雨なら雲のいる処だ

 あそこがみんなの命のもとだ

 いつでもみんなを見ていてくれるお先祖さまだ‐‐‐

 えらい人や名高い人にならうとは決してするな

 もって生まれたものを深くさぐって強く引き出す人になるんだ

 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ

 それが自然と此の世の役に立つ

                       おわり

 

 

 
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 14:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月17日

『自分は自分の主人公』

 教育界の国宝といわれた人がいた。その名は東井義雄(明治45年、兵庫県但東長町に生まれた。その生涯を小中生の教育に捧げた人である)。

 東井さんは言う「世界でただ一人の私を、どんな自分に仕上げていくか。その責任者が私であり、皆さん一人ひとりです」と。

 最近の事件で50歳代の教諭が受け持ちの生徒に「自分は愚か者です‐‐‐‐」の反省文を書かせて問題となった。

 教師たるもの本来は、自分の『人間力、教師力』で生徒の『非』を気づかせ、本心からの反省を促すべきであるのに。

 『非なる行為』を行なっている生徒は冷静になって自省すれば本来自らの行為が『非』なる事は判っているものです。

 それを促し気づかせるのがここでいう『人間力であり教師力』です。

 何故生徒は、教師の言うことを聞かないか。何故生徒は、教師を呼び捨てで呼ぶか。何故、学級崩壊が起きるのか。

 このような渦中にある多くの教師は、東井さんの言う「どんな自分に仕上げていくか」という視点を持ち合わせずに生きてきてしまった、言い換えれば外ばかり見て生きてきてしまったからではないか。

 人間の肉体外見は大人で身の丈1メートル40,50センチ〜70、80センチ。目が二つあって、鼻が一つ、耳が二つ、頭には髪の毛が生えている。と、それほど大差はない。

 しかし、目に見えない『心の部分』は偏差値で言うと、一般的には偏差値30位から偏差値80位までの違いがある。

 もともと少々悪戯な生徒が悪戯をして壁に穴を開けた。偏差値30〜40の教師が口頭で注意した。生徒は素直にその先生の言うことを聞きますか?

 聞かないでしょう。何故ですか?色々理由はあるでしょう。

 でも、生徒が素直に教師の言うことを聞くためには少なくとも次の条件が必要でしょう。
 
 『生徒が胸襟を開いて教師の話を聞き、受け入れることです。』

 では、どうしたらこのような状況を創れるでしょうか。

 これにも色々とあるでしょう。

 消去法でいけば「自分のことしか考えていない教師」はダメでしょう。「自分に甘くだらしない教師」もダメでしょう。「生徒の為に、生徒に愛情を持って接していない教師」もダメでしょう。「生徒の為ではなく、自分の評価、体面の為に叱るような教師」もダメでしょう。  云々。

 つまり、これらの教師は自分だけが気づかないだけで生徒達は、チャンとその教師の心のうちを見抜いているのです。

 だから、その教師の言うことを聞かないのです。

 教室に一歩入っただけで、その教室の雰囲気ががらりと変わる教師がいます。その教師が同じことを言えば生徒が素直に聞き、従う。そして、自分の『非』を深く反省するのです。

 この違いに気づくこと、そこからの出発なのです。

 ここに気づかない限り「自己の成長のレール」には乗れないのです。周りのせいにし、生徒のせいに、制度のせいにしている限りは何時までたっても「人間の成長のレールには」乗れないのです。

 今起きている『負の社会現象』の多くの原因は「教師」であれ、「組織の上司」であれ、「親」であれ、『指導者、リーダー』の立場に立つ者の、ここの自覚が無いことに原因があると思うのです。

 ここに気づかず、いくら制度をいじくっても、いくら子供達を責めてみても何も問題は解決せず悪くなる一方なのです。

 ここに気づいてあげなければ、今の子供達は救われないのです。可哀相です。本当に可哀相なのです。

 人間は、自分だけではどう進んだら良いか、どう生きたらよいか、なかなか分からないものです。路を知ったリーダー、先達が居て、そのリーダー、先達達が上手く導いてくれて、初めて正しい方向に向かって生きていけるものなのです。

 今の子供達はあまりにも可哀相です。

 
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 13:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

道徳 倫理の崩壊 ここまで来たか

 先日朝刊を読んでいて愕然としたことがある。

『白神ブナ 刃物で傷』というタイトルの記事を読んでいた時のことだ。皆様ご存知のわが国が誇る世界自然遺産白神山地で、ブナの木約20本にカタカナや数字などが刻まれているのが見つかったのだ。

 現場は、自然地域の中心部「核心地域」の中心部にある「緩衝地域」内で核心地域の自然環境に影響を及ぼす行為が厳しく規制されている地域。

 一般向けの登山ルートではなく、地形も急峻で「余程山に詳しくないとたどり着けない地域」だという。

 日本アルプス級の登山をやったことがある方ならばお判りのように、登山は、ただひたすら一歩一歩、頂を目指して自分の足で歩くだけの作業の繰り返し。

 半端な人間やいい加減な物見遊山の気持ちで出来るものではない。
登山愛好家には比較的純粋で単細胞の好人物が多い。

 その登山愛好家でさえ‐‐‐‐‐‐??????

 「どうなっているんだ人間達よ」と思わず絶句してしまった。

 モラルハザードが叫ばれてから久しい。せめてペルソナの生徒達には「是是 非非」をキチット教えていきたい。と思う今日この頃である。
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 15:34| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

つまづいたおかげで

 相田みつおの詩に『つまづいたおかげで』というのがある。

      つまづいたり ころんだりしたおかげで
    
      物事を 深く考えるようになりました

      過ちや失敗をしたおかげで少しづつだが

      人のやることを温かい目で見られるようになりました


          何回も追いつめられたおかげで
   
          人間としての自分の弱さとだらしなさを

          いやというほど知りました
  
     
      騙されたり裏切られたりしたおかげで

      正直で親切な人間の温かさも知りました

      そして身近な人の死に逢うたびに


     人の命のはかなさと今ここに生きていることの尊さ

     を骨身にしみて味わったおかげで人の命を大切に

     する本物の人間に裸で逢うことができました

      
      一人の本物の人間に巡りあえたおかげで

      それが縁となり

      次々に沢山の良い人たちに巡りあうことができました


          だから私の廻りにいる人は

          みんな良い人ばかりなのです


 つまづくこと、失敗すること、逆境に見舞われること等々を人々は皆恐れる。

 記憶にまだ新しい加藤智大容疑者が犯した『秋葉原殺傷事件』。

 直木賞作家の石田衣良(いしだ いら)さんは次のように言う。
「秋葉原を歩くほかの人は楽しそうで、自分だけが苦しい環境にあると思い込む。(中略)同じような境遇の人は大勢いる中、彼だけが一線を越えてしまったのは、『一度負けたらおしまい』という想いにとらわれ過ぎていたのでは。」そして更に「こうした風潮は広がっている。教師や官僚は失敗を恐れて何事も無難に過ごそうとする。」と。

 つまづくこと、失敗することによって人は初めて物事に『真剣』になれるのではないか。平穏無事無事で経済的にも十分で、お金もたっぷりとあったら、物事に人生に『真剣』になれるか?人生を『深く』考えることが出来るか?

 上大岡トメさんという二児の母でありイラストレータでもある女性が新聞紙上の『こどもと育つ』というテーマの中で、次のように述べていた。

「こどもたちに望むのは、どんな逆境でも、冷静に判断して対処できる人間になって欲しい、ということだ。やりたいことがあるときに限って、必ず試練が訪れる。だがそれは『あなたは本気でやりたいの?』という神様からのテスト。冷静に対処すれば、やりたい気持ちが神様に伝わり、ちゃんとかなう。そうこどもたちには教えている。中略 成長するにつれ、ますます試練は増えるだろう。でもそれはむしろチャンス。パニックになってはいけない。以下略」

 この記事はもう十年近く前に私が読んだもの。今の世の全ての母親が上大岡トメさんと同じような子育てをやっていたのならイジメの問題、不登校の問題を筆頭とする子供を巡る多くの悲惨な諸問題は、その大部分が起きていなかっただろうし起きていても悲惨な究極の状況まで発展して行くことはなかっただろう。

 すぐに「キレル」子供、一線をいとも簡単に超えてしまう今回の『秋葉原殺傷事件』、同級生を自殺にまで追い込んでしまうイジメ。

 教師、官僚そして多くの大人たちが「失敗を恐れ何事も無難に過ごそうとする」生き方を根底から変えない限り、そのような大人たちが多くいる社会にならない限り、今の子供達、そしてこれからの子供達の悲劇は終わることなく続いていくのではないか。

     
      つまづいたりころんだりしたおかげで

      物事を 深く考えるようになりました

                       みつお


                 おわり
 




 
posted by P.L.Sスクール ペルソナ at 15:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする